ぐらめぬ・ぜぷつぇんのはてダ(2007 to 2011)

2007年~2011年ごろまで はてなダイアリー に書いてた記事を引っ越してきました。

雑感

どこ経由か忘れてしまったけど、昨晩とかは「真・コンピュータ用語辞典」にしっぽり嵌ってしまっていたりした。

http://glossary.tank.jp/

まあ風刺や洒落ではあるのだけれど。読んでいる間はそれこそ「あ〜〜、あるある」「うう、これ自分のことだぁ・・・」「あ〜、こんな非道い会社じゃなくて良かった」とかあったのですが。

暫くして、ようやく客観視できるようになって、何となく思ったことで、結局こういったIT業界や内部事情に対する様々な意見やぶっちゃけ話、愚痴、など、それはまるで壁に空いた針の穴からのぞき見てどうこう言っているものでしかないような気がしてならない。
つまり現在のIT業界は、IT業界と一括りに出来ない程多様になってきてしまい、個々人が自分の経験を元にして現状のIT業界を総括的に語ろうとすると、あたかもカオス化したルービックキューブの一面だけを見てどうこういってしまうことに・・・個々人の能力にかかわらず、なってしまうのではなかろうか、ということ。

例えばアカデミックな世界のソフトウェア開発があるだろうし、例えば今一番叩かれている業務アプリケーションの世界があるだろうし、今一番人気と思われるWebアプリケーションの世界があるだろうし、ハードウェアと密に関連した組込の世界があるだろうし、中々表から覗くことが出来ない金融や工場の制御関係の世界があると思う。

IT業界はどのような学生を求めているのか。重鎮たちは「コミュニケーション能力に長けている人」(浜口氏)、「チャレンジングで好奇心旺盛な人」(岡本氏)の2点を挙げた。

IT業界不人気の理由は? 現役学生が語るそのネガティブイメージ − @IT

とりあえず引用したかったので適当な箇所を引用してしまったが、結局IT業界の重鎮達も彼ら自身の世界観(=針の穴)からIT業界という言葉(壁)の向こうを語ってしまっているのではないだろうか。もちろんそれはイベントに参加した学生側も同様だが、しかし学生という立場と経験値を考慮すればそれは致し方ないかも知れない。そしてもちろんこの記事に反応した技術者達も、彼ら自身の針の穴で壁の向こうを見ていたのだろう。当然自分も例外ではない。

だから、本来このイベントについていえば最低2種類の人間を揃えるべきだったのだ。このイベントに出席していた重鎮達は当然として、それに加えてまつもとゆきひろ氏や小飼弾氏、梅田望夫氏、なども招待するべきだったのだろう。でないと、壁の穴の位置が偏りすぎてしまい全体が見えない。
もっと言えば年齢層にもバリエーションを持たせるべきだったのだ。パンチカード時代から携わってきた人間、MSXなどのマイコンから入ってきた人間、PC98などのDOS全盛期から入ってきた人間、Windowsが出始めてから触りだしてネットで起業した人間。世代毎に見てきた世界が異なり、環境も異なる。その分だけ壁の穴の位置もバリエーションに富む。
そうした、古い世代から今に至るまでの各地点でスタートした人間達が一同に会して、それぞれの世界を語り合わせるというイベントはないものだろうか?
例えば「コミュニケーション能力に長けている人」という要求があったとしても、その裏側の真意は?おそらくその発言には、発言者のスタート地点での時代情勢や、職場環境、個人の性格や価値観、会社としての要求、などなど大量のパラメータが関連しているはず。そういったものを考慮せずに批評したところでこれもまた、壁の穴から覗いて云々しているのは一緒ではないだろうか。

つまるところIT業界自体が一括りに出来ない業態になってきてしまい、個々の経営者層・管理者層・リーダー層の意見はその人の属するドメインに限定されてしまうという事を考慮した上で、受け手側でバランス調整しておかないと、これほど多様な意見が存在する現在「どれを信じて良いのか」という状態になってしまい混乱する。言い方は悪いが「話半分」に聞くようにした方が良いのかも知れない。残りの半分は、話者の生い立ちや話者の現在の価値観を構成するに至った社会情勢と歴史、会社や携わった仕事の内容などを客観的に調べることで、ようやくバランスが取れるようになるのかも知れない。

IT業界というメタレベルですらそうなのだから、実際の現場の技術者もまさしく百花繚乱であろうことは想像に難くない。COBOLしかやってきていない技術者もいるだろうが、その中にも仕事と割り切ってCOBOLしかやらず他の言語を自分から学習しない技術者もいるだろうし、密かに他の言語を自腹を切って本などを買って勉強している技術者もいるだろう。何となく格好良いから始めた若手もいるだろうし、元々プログラミングが好きで独学していた連中もいるだろう。1970年代生まれもいるだろうし、1980年代生まれもいるだろう。そろそろ1990年代生まれも大学に出てくるだろう。あるいは1950年代、60年代生まれもいるだろう。
そうなると、「現在のIT技術者」と一口で語ることはもはや不可能になりつつある。1950-60年代の技術者が過ごし、価値観・人生観・仕事観を形成してきた社会や技術情勢と、1980-90年代の技術者のそれとは当然異質だ。壁の穴の位置がまるで違う。

だからこそ、今のIT技術者に必要なのは一旦壁から離れることではないだろうか。あるいは壁の穴の位置が異なるということそれ自体をまず認識しなければならないのではないだろうか。「そんなこと分かってる」と言われそうだが、じゃぁ本当に分かってるのか?と聞いてみたいし自問しなくちゃ行けない。だって、一個の人間が、そんなにあっちこっち転職したり職種を変えたり出来るわけがない。確かに一部では波瀾万丈な人生を渡り歩いている人たちもいるだろうが、平均した大勢の人間は、そこまでやっていない。
例えば1970年生まれ・東京都出身・東京都内の学校を卒業・都内のソフトウェア会社に就職、というモデルケースを考えてみた場合、20代は1990年-2000年になるわけで、その間の社会情勢や仕事・職場の歴史を総ざらいして、対象の仕事観・人生観・価値観にどのような影響を与えたかをある程度分析して始めて、その対象がはまりこんでいる針の穴の位置をようやく、見つけることができるのではないだろうか。
・・・そこまでしないと無理?なのか?

あるモデルケースとして自分自身を挙げるが、1981年生まれで千葉県の田舎出身。3兄弟の末っ子(長男・長女・自分)。
パソコンを始めたのは多分中学に入ってから。当時1995年位で、Windows95が華々しいデビューを遂げた時。恐らく長女が将来事務仕事で困ることがないように、と父親が買ってくれたと記憶している。Webはまだまだで、FM-VでNiftyServeがまだ全盛だった時代。クレジットカード番号を入力してモデムをダイアルアップさせる、ということ自体に四苦八苦したのも懐かしい。ちなみに実家はトーンではなくダイアルだったのに加え、クレジットカードが父親のものでジャックスカードで、接続アプリで選べなかったという二重の障壁があったため、実際に利用し始めたのは1996年とかだったろうか?テレホーダイとか使い出したのは高校生くらいだったような気がする。

ともあれ、中学時代は自分はWindows95ではなく、むしろ父親の事務所のお下がりのEPSON PC-286ラップトップで専らEPSON BASICで遊んでいた。中学の教科書の後ろの方に簡単なBASICの説明があったので、それを打ち込んだり、中学で習ったsin, cosのカーブを描かせたりして「カッコイー」と喜んでいた。
中学当時は自分なりにいろいろあって、現在の価値観にものすごい影響を与えたと思っている。まあ多かれ少なかれそうだろうけど。

自分は小児喘息を患ったことがあり、幼稚園時代かなりの時間を、家で一人で過ごしていた。おおよそ喘息で寝込んでいたか、一人でブロック遊びをしていたり漫画を読んでいたりした。自分としては幼稚園自体のその経験というか環境は今に至るまで相当影響していると思う。つまり、みんなで何かして楽しむのではなく、一人で自分の世界を構築して楽しむ、というベクトルが形成されたのは、まずこの時代で間違いないからだ。逆に言うとみんなで何かして楽しむ、という楽しみ方が今でも分からない。
これに加えて、末っ子だったこともあり、年上や目上の人に気に入られる為の姿勢というかしゃべり方というか、とにかくそうした手法が強固に形成されたのも間違いないと思う。逆に言うと、同年代や後輩と仲良くするという基本姿勢が置いてけぼりになってしまった。

小学校時代はまだみんな無邪気だったからそうした自分の特性で悩むことは少なかった。が、正直今でも小学校の頃の自分は好きになれない。あまり詳しくは覚えていないけれど、自惚れと根拠のない自身や、年上(=教師)に気に入られる優等生的な雰囲気で上から目線で同級生と付き合っていた自分は正直好きになれない。

そうした価値観を粉砕してくれたのが中学時代で、クラス替えはなく3年間一緒だったのだが、とにかくあの面々と3年間一緒にやれたことは今でも感謝している。というのは、あいつらは実に正直に、自分という優等生ぶりっ子の部分を見抜き、つきあってくれたからだ。まぁようするに、当時の主観としては最初の1年は「いじめられた」わけだが、田舎の中学校のこと、新聞に載るような非道いものではなく、どちらかというとむしろ一人でいた自分を無理矢理にでも仲間の遊びに引きずり込もうとしてくれたのだと今では考えている。ただ当時、優等生気分で完全に上から目線だった自分としては彼らの当時の行為は非常に迷惑でレベルの低いものとして目に映ったことは確かで、いやぁ、上から目線で色々馬鹿発言したなぁと思う。正直中学の3年間、特に1年目は記憶が飛んでいて、中学2年の4月に、クラス会長をようやく別の人にバトンタッチできた瞬間のうれしさだけは良く覚えている。いや、ほんとあのクラスの級長をつとめるのは半端じゃなかった。しかも1年目だったし。

中学時代に瀬名秀明の「パラサイト・イブ」が発刊され、近所のTSUTAYAで、土曜日午後、半日掛けて(後半しゃがんで)立ち読み・読破した。さぞかし店員は迷惑だったろうが、いや、一応ちゃんとその後レジに持ってきましたから。多分このときのが初版だと思うけど、ハードカバーで真っ白なカバーなんだけど、隅の方になんだか不気味な顔が覗いていて、緑色のミトコンドリアの写真がちらり覗いているあのデザインは、その後のパラサイト・イブのカバーイラストバリエーションに比べても圧巻だとおもう。今でも持ってます。
これがきっかけで生物系のおもしろさに目覚めた。折しも、「リング」(こちらは1993年に既に出版されていたようだが)がじわりとブームを見せ始めていて、バイオ系ホラー小説が角川から出始めていた頃。

で、ようやく高校生になるわけだが、そのころにはどうやら自分はかなり厭な性格をしているらしいことが充分自覚され始めたので、高校時代はそういう面では大人しく過ごした。おかげで対人関係でストレスフルになるような経験はしなかった。高校生になりバイトも始め、初代FM-Vでは(姉も)物足りなくなり、バイトで稼いだ金でメモリを買ったり、あるいはお古を下げて貰いHDDを増強したりしてた。当時ようやくテレホーダイISDNが普及したのだが、自宅はダイヤル回線でISDNにアップグレードできなかった。友人宅のISDNの早さに目を見張ったのも懐かしい。
高校に入りようやく、プログラミングをしている人間と出会った。当時EPSON-BASICしか知らない私に、Borland C++ Builderを教えてくれたあの友人は、まず間違いなく、自分が現在この仕事でご飯を頂けるようになった最大の恩人だろう。とかいいつつ連絡先しらねぇや。
BASICしか知らない私にいきなりBorland C++ BuilderでのGUIプログラミングははっきり言って無謀だったと思う。入門書も一冊こなしたのだが、ポインタやクラスなどが分からず、先に進めなかった。それと並行して、父親が自分にQuickBasicをプレゼントしてくれた。これはEPSON PC-286上のMS-DOS 3.0レベルでも動いてくれた。関数としてまとめたりといった構造化プログラミング的な部分は多分これで覚えたのだと思う。プログラミング歴はそうした次第で、高校・・・多分、1年生の間はBASICにどっぷり嵌っていたと思う。
Cに本格的に手を出したのは、お年玉で自分でEPSON PC-486を千葉の中古PCショップで入手してからだと思う。HDD200MBの完動品ラップトップは非常に満足できた。但しMS-DOS 3.0のFDISKではフォーマットしきれず、幸いなことに数学の教師がその辺詳しかったのでMS-DOS 5.0を教師から入手したりした。
懐かしいがLSI-Cを入れて勉強しだした。ところが、制御構文などは良いのだがやっぱりポインタが分からない。LSI-C試食版が添付された入門書で勉強してみたのだが、N.G.そこで、高校の図書室をあさり、ASCIIの「入門 C言語」「実習 C言語」の二冊と出会い、ようやくポインタを理解することができた。とはいっても実習C言語の方はかなりしんどくて、関数ポインタやstaticの理解は大学まで待つことになる。

高校時代を語る上で、「serial experiments lain」というアニメーションと「Turbo C++」との出会いははずせない。

serial experiments lain」についてはGoogleに訊いて頂くとして、とにかく、当時C言語やBASICで一杯だった自分に「コンピュータ・ネットワーク」という存在を教えてくれ、しかも、それがいよいよこれから大進化し始めている真っ只中であることを教えてくれたのは間違いない。このアニメーションがきっかけで日経NETWORKを創刊号から読むことになったり、こうしてWebアプリケーションの世界で飯が食えているわけだ。この出会いを作ってくれた高校時代のあいつなしには、今の自分は居なかった。
「Turbo C++」は、これも偶然ではあるが重大な出会いだった。たまたま千葉のヨドバシカメラに行った時、そこの地下のソフト売り場で、隅っこの方に埃をかぶっておいてあったのだ。それもそうで、当時既に1996-7年、Windows全盛でVisualBasicやVisualC++が流行っていた時代だ。しかし、LSI-Cで勉強していた私にとってWindowsGUIプログラミングはあまりにもレベルが高すぎ、まだまだDOSC言語の基礎を勉強したかった。そしていくらEPSON PC-486の性能が286と比べて使いやすかろうと、LSI-CではC++は作れなかった。
というわけで、Turbo C++を購入し、それと多分同じタイミングで「かんたんC++」という今ではありふれた題名の本を購入した。物語り調で話が進み、フィクションの主人公がC++オブジェクト指向で「ロボ・ドッグ」を動かす。最初は「お手」程度の簡単なプログラムだったが、徐々にテニスコートの入退室管理をしたりするなど高機能なC++プログラミングになっていく、という感じ。

ASCIIの「入門 C言語」「実習 C言語」、Turbo C++、そして「かんたんC++」でようやく自分なりにプログラムを組めるようになったのが高校2年の終わり頃だと思う。高校3年はまじめに大学受験の勉強をしていた為、あまりプログラミングの記憶はない。

思い返すと、自分なりにそれなりに出来たとは思うが、他の人の経験を訊くと随分レベルが低かったようにも思える。例えばMSXマイコンZ80など触っていないし(というか家にPCが来たのが1995年で、そこからDOSに退化してるし)、雑誌のコードを打ち込んだりとかはしなかった。当時C Magazineはあったのだけれど、何を書いてあるのか理解できなかった。有用であるのは分かったのだが、使い方もわからず、読んでいると頭痛がしてきたので1, 2冊しか買わなかった。
ネットも殆ど頼れなかった。
ダイヤルアップ、良くてテレホーダイ。従量課金から解放されるのが深夜では、当時の生活サイクルとしては自由にネットで他人と知識を交換できるなど不可能だった。高校受験や大学受験にもそれなりに割いてしまっていた。
当時はMP3が台頭し始めた時期だったり、テレホーダイISDN、モデムも56.7kbpsまで出たりと一年サイクルでインターネットのインフラが整いつつあったため、利用者としてはそれなりにマニアな友人は居た。しかし、実際にプログラミングを勉強しているのは、私にC++Builderを奨めてくれた友人一人だけだった。彼も彼なりにローカルなコミュニティに参加していたようだが、最後まで自分はその中に入れなかった。入ろうと思えば入れたのだろうけど、レベルの違いが怖かったし、何より自分はまだそのレベルには達していないという自覚があったので、入るのに気後れがあった。

かなり孤島な環境で中学・高校時代はプログラミングを勉強していたと思う。

大学に入って「Cプログラミング診断室」「独習C++」と出会い、ようやく関数ポインタやconst, staticなどの意味がわかり、一般的なCコードが読めるようになった。また、Windows32APIだけの入門書(タイトル失念)と出会い、Borland C++ BuilderがWin32APIを独自のクラスライブラリでラップしていると言うことにようやく気づいた。大学2年位まで(2002年)はLinuxには触っていない。
ただしテレホーダイには加入して、大学生活という自由時間の深夜はテレホーダイでアダルトサイトの閲覧などで満喫していた・・・のも一面の事実。

しかし、やっぱりプログラミングを勉強していたのは大学の機械システム工学科では自分一人だった。
SF研というサークル(よくある漫研)に時々顔を出していて、その中には電子システム工学科の人も居たので教わろうと思えば教われたのだが、しかしやっぱり何か、自力で勉強したくて教わらずに終わった。

大学2年の終わりくらいまでは、C/C++に特化していて、その勉強の為に重いIDEを毎回起動するのは厭だった。2004年くらいまで、C/C++入門者向けに特化したエディタの開発が結構流行っていた。DelphiVCLでTEditorというのが公開されていて、これを使うことでソースコードエディタのエディタ部分は殆ど出来上がってしまい、やることはファイルの保存やコンパイル、編集や検索メニューの充実で差をつけるご時世だった。
自分も、C/C++を勉強する為に、TEditorとC++Builderでエディタを作った。本末転倒は多分このあたりに端を発するような気がする。
結局Cコンパイラに拘らず、汎用的に「現在編集中のファイルを任意のプログラムにコマンドライン引数として渡す」機能を実装した結果、自分としてはCだけでなくアセンブラFortranコンパイルもできるが、その分初心者には使いづらいエディタになった。

当時はWindows98全盛でWindows2000はSP1とかその時代。自分のPCはWindows98だった。開発経験自体が貧弱だったし、MSDOSプロンプトの使い勝手も悪かった(ような記憶がある)ので、CUIコンパイルというよりはやはりGUIなエディタ上でそのままコンパイラを呼び出せた方が良かったのでそうしたのだが、結局、現在は自分でも使ってない。

大学3年くらいから某NPO法人のWebサーバー管理のアルバイトを始めた。ここでLinuxと出会う。
ところが、やはりそこでもLinuxを使っているのは少数派・・・というか自分と、そのバイト先の上司だけだった。
そのNPO法人はとある会社にサーバースペースや資金を間借りしていて、バイト先の上司もその会社の人だった。
で、その会社は主にWindowsプラットフォームあるいは下水処理施設の制御、電力系をメインにやっているところで、Linuxに詳しい先達は居なかった。

バイトではWebサーバー・DNSサーバー・Mailサーバー一通り調整した。NPO法人と言ってもとある大学の教授が発案して立ち上げたばかりで、サーバー台数も2台でそれぞれ別のドメインを割り振った、オール・イン・ワンサーバーだった。そのため、Web/DNS/Mail/SSH/FTP一通りの設定を弄れるようになった。殆どが独学だったが、このころ(2003年)になればさすがの自分もGoogle検索に頼るようになった。
さらに、サーバーだけでなくその上で動作する会員管理のWebアプリ(当時はCGIという感覚が強かった)まで触るようになった。
ここでPHP3・PostgreSQLと出会う。が、やっぱりPHPPostgreSQLを扱っている人は周囲では自分一人だった。

結局大学を卒業する2004年まで、PHP/PostgreSQLは全て独学を元にしていた。その時代のアプリはあらかた消滅しているが、今思うとセキュリティホール満載、ぐちゃぐちゃなクラス構成で見れたものではなかったと思う。

2004年に今居る会社に入った。そこで始めてきちんとJavaを勉強した。研修でJavaをやり、最初の仕事はVisualBasicでシリアルポートを制御するプログラムだった。その後正式にJavaの仕事に就くことになる。
が、その当時会社はかなりきりきり舞状態だったらしく、自分がJavaの仕事で入ったチームは、先輩格でJavaをやっていた人間がごっそり退職してしまっていた。その状態で、持ち帰り開発で、しかも過去のソースコードを参考にするという制約下で、頭でっかちの学生上がりの自分がJavaのプログラムを「担当」することになってしまった。
さすがに新人一人じゃ危なかったので、クラス設計を外の人に手伝って貰い、実装は派遣会社から来て貰った人と一緒にやった。

この仕事で、初めて雑誌記事で見る綺麗な理想的なコードではなく、実際の現場で改修が繰り返され、コメントアウトのネストにまみれたソースコードと出会うことになる。

その後時々短期的にPHPの仕事をやったりもしたが、全体としてJavaの、それもWebAPI的なバックエンド的な通信処理プログラムの開発が主なお仕事になって今に至る。

で、最近はもっとライトにWebプログラミングを始める人も多いのではないだろうか?JavaScriptから始めた人も居るくらいだ。で、やっぱり東京都近郊でWebプログラミングを「学ぶ」というのは、地理的な優位性も半端じゃなく無視できないと思う。例えばユーザー会やオフ会などはやはり東京近郊の人でないと中々出れない。
確かに自分の歩いてきたとおり、離れ小島で独学だけでも、何とかやっていけるのは確かだ。また、自分の性格特性として独りでやるのが苦にならないのも確か。
しかし、同じドメインに興味を持っている人が近くにいないというのは、今でこそネットで気軽に出会えるようになったが、当時は結構きつかった。

正直なところ自分自身で技術レベルが急上昇したのを感じたのは会社に入って以降、家でようやくCATVなどの高速インターネットの恩恵を受けられ、会社では思う存分ネットサーフィンできるようになってからだ。IT業界にフォーカスしたニュースサイトでスクリプト言語が盛り上がった時期は、ちょうど自分が大学4年から就職以降の時期と重なっている。


だらだら自分史を書いてきたけど、つまり、こうしたバックエンドを基にした「針の穴」から自分はIT業界を覗いている。そして、それは他のIT技術者も一緒だ。それぞれのバックグラウンドはきっと語ればドラマチックで、酒が入れば熱を入れて語り出せる人生に違いない。

それこそが、針の穴の位置を見定めるための手がかりの筈だ。普段職場でレガシー技術に凝り固まってるあの人だって、きっとその人なりの人生があり、仕事をしていった中での喜びが有ったはずだ。そのバックグラウンド抜きにして議論を交わしても、針の穴の位置が分からなければ像を鮮明化することが出来ず、同じものを見ているのに見えている像は異なる為、無益な議論になりかねない。

冒頭にようやく戻るが、IT業界自体は不人気である。たしかにその通りだが、しかし不人気の中で働いている有象無象の人たちのおかげで、多くの社会インフラが正確に、そしてより便利に動いているのも確かだ。今では頭の硬いCOBOL技術者だって、その人が携わって仕上げたATMシステムが毎日大量のお金のやりとりをしているだろう。華々しいWebアプリに比べて地味きわまりないが、それでもデバイスに近い領域で上下水処理施設のコントローラをプログラミングしている人たちのおかげで東京の水道が動いていることには違いない。
そういった、「実はスゴイんですよ」という部分のアピールと、そのやりがいというのを表に出さなかった事はきわめて不利だと思う。

例えば1950 - 60年代,あるいは70年代からシステム開発に携わった人たちは、無から有への転換期で仕事をしていたのだと思う。今まではコンピュータが全くなかった領域にコンピュータシステムを導入し、業務を大幅に簡素化させたりした。それはきっと、表に出さなくとも、技術的な苦労をブログに書かなくとも、井の中の蛙で居ても、似たり寄ったりの位置から針穴をのぞき込んでいても、素直にやりがいを感じることが出来たのだと思う。
翻って2000年以降、そうした社会インフラは「有って当たり前」「正常に動いていて当たり前」の時代になってしまい、その裏側で繰り広げられたドラマチックな人生は個々人の記憶の内に封じられてしまった。そして、今はWebの世界が「無から有」を作るのに一番やりがいが見いだせる世界なのだろう。またそれを見て、良しに付け悪しきにつけ反応してくれる人数も比べものにならないくらい増えた。
さらにブログやWikiなど個人のメディアが発達したおかげで、まさしくWebの世界の「無から有」の舞台裏の技術的・人間的なドラマがあっというまに伝播するようになった。

自分の浅薄な歴史観程度でもこの程度の考察はできる。しかしそれにつけても、業務システムの世界のこのドラマの「見栄なさ」(誤植じゃない)は条件的に不利だと思う。

物理的な「無から有」の商売は非常に「見えやすい」。石炭・石油の採掘から鉄道インフラの整備、銀行や金融システムの整備、さまざまな商品の開発。こうしたレイヤーの活動ははっきりと目に見えるし、直接消費者に届くので「無から有」というのを非常に感じやすい。もちろん文化や娯楽、メディアも「無から有」の楽しさが分かりやすいし、消費者にも見えやすい。

ところがこと業務アプリケーションなどは、消費者に見えることがなく、あくまでも裏側で粛々と動作しているものである。しかも特定の企業向けのものとなればユーザーも限られてくる為、中々実際にシステムが出来上がることによる「無から有」を体感しづらいのではないだろうか。しかも、今では殆ど既に「無から有」になり終わっていて、それをメンテナンスしたり新規機能を後付けしたりする業務も多いだろう。あるいは、そのように見られているのかも知れない。実体はそうでないにもかかわらず。

なんかまとまらなくなってきたけど、結局IT業界の重鎮がどうのこうのとあるが、世の中の「フェーズ(相、態)」が四半世紀も経ってしまえば充分切り替わってしまい、今の重鎮と若手の間で視点のずれがあるため、@ITにあるような結果に終わってしまったのだと思う。
この事に気づかず、ステレオタイプに「IT業界はこれだから・・・」「世間を知らない学生はこれだから・・・」と一括りにする論法は当然もはや成立しない。参加者の個々人の経歴や価値観、そしてそのバックエンドからの密かな要請にまで丹念に目を向けることで初めて個々のプレーヤーが属する、属していたフェーズを理解し、針の穴の位置が観測可能になる。

もちろん不人気への対応についても、個々のプレーヤそれぞれ意見はあるだろうが、それも個々のプレーヤの属する・属していたフェーズの影響を充分考慮しないと「今」との位置調整に失敗し、議論も進まないだろう。

結局当たり前の人生訓みたいな終わり方でいやーん(ノ´∀`*)な感じだが、老若男女それぞれのプレーヤ毎に歩んできた人生があり、それぞれ熱を入れて語ればきっとドラマチックなものに違いない。そして、生きてきた時代を取り巻くフェーズは環境や出生地によりそれこそ千差万別であり、その影響を考慮しないと、プレーヤーの発言や真意を「今」のフェーズとすりあわせることは無理だと思う。

まぁ結局、「STEEL BALL RUN」で言うところの

「レッスン4:敬意を払え」

なんだけどね。